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阿南陸相は自決の直前に、なぜ、「米内海相を斬れ」と言ったのか?


しかし、海軍大臣、米内 光政(よない みつまさ)はどうか?

米内海相は責任を取る事を拒否した。おそらく、阿南陸相は、米内海相に、「俺は陸軍の責任者として、責任を取って腹を切るから、米内、お前は海軍の責任者として、俺と一緒に腹を切ってくれ」と頼んだに違いない。

しかし、米内海相は、おそらく、「俺は腹など切らん。あんな痛い事できるか。ばかばかしい。腹を切りたければ、お前だけ切れ」と言ったのだろう。それに腹を立てた阿南が「米内を切れ」と言ったとしても不思議ではない。

もちろん、米内海相に責任が無ければ腹を切る必要は無いが、そうではないだろう。

戦争が終わった後、最後の帝国議会において、阿南の後を継いだ下村陸相は戦争責任について陸軍の責任を認めて謝罪し、「せめて散っていった将兵にだけは、同情を賜らんことを」と痛切な答弁をして、多くの議員が涙した。

しかし、米内海相は、答弁を求められると、「その質問は自分へのものではない」と言って、答弁を拒否し、責任を認めなかった。丸で統一教会との関係で責任を問われた細田衆院議長みたいではないか。

もちろん、米内海相には、終戦時、徹底抗戦を主張する陸軍に反論し、終戦に導いた功績は有る。しかし、そもそも、敗戦に至った責任は、日中戦争を拡大した米内海相にも有るはずだ。従って、例え、終戦時に功績が有ったとしても、それは「マッチポンプ」ではないだろうか?

米内の責任を挙げれば、

1.米内のロシア駐在時の評価は、「米内はロシア語の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込んでいる」と絶賛され、ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と評価した。しかし、逆に言えば、米内はロシアに惚れ込んでいたのではないか?

2.米内は、第二次上海事変が発生すると、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日には、米内は、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに8月15日には長崎から南京に向けて、海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。

3.米内は、同日から8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を連日爆撃し、これにより日中戦争の戦火が各地に拡大した。

4.米内は、1938年(昭和13年)1月11日の御前会議で、トラウトマン工作の交渉打切りを強く主張、これが「蔣介石を対手とせず」の第一次近衛声明につながり、中国との戦争終結が不可能に成った。

5.1月15日の大本営政府連絡会議で、蔣介石政権との和平交渉、トラウトマン工作の継続を強く主張する陸軍参謀次長・多田駿に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理に、「以後、国民政府を対手とせず」と言わせてしまった。

6.これは中国における最も有力な交渉相手を捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させた。もし、この時、陸軍参謀次長・多田駿の意見を受け入れ、蔣介石政権との和平交渉に成功していれば、太平洋戦争は無かった。つまり、日本を対米戦争に導き、敗戦に至らしめたのは、陸軍ではなく海軍の米内ではないか?

7.米内が蒋介石を敵視したのは、蒋介石毛沢東の共産軍と戦っていたからだろう。米内は親ロシアだから、毛沢東の共産軍に好意的だったのではないか?

8.米内は、11月25日の五相会議で、海南島攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であり、米内は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であった。

9.米内は、第二次上海事変で、出兵に反対する賀屋興宣閣議で怒鳴りつけて、無理矢理、兵を出させて、シナ事変を泥沼化させた。米内は、海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた。

10.米内の一貫した思想は、海軍の論理を政治よりも優先させる事だった。当時、上海や海南島には多数の海軍部隊が孤立しており、それを救出するために米内は派兵を主張したが、その派兵が事変全体の長期化を招く危険を無視した。

11.米内は、「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった。国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む」言うてる。

12.米内は、私がかねてから時局収拾(終戦)を主張する理由は、敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾ソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態(食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊すること)が主である。(中略)軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と近衛文麿細川護貞などに語った。

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